第十一代垂仁天皇の御代、新羅の国(韓国慶尚道の地)の王子天日槍が多くの族人を率いて渡来した。天日槍は武庫浦に来着し、最終的に朝廷より好む土地を求めて住めとの恩命により但馬國に定住した。その天日槍の曾孫の田道間守から、日生下・三宅・橘・糸井の諸氏に分かれ、日生下氏が城崎の地を開拓した。 和銅元年(709年)日生下氏の末裔日生下権守は、或る夜の夢に、冠を着け沓を履き見るからに端正な四人の神人が現れ、「我は是れ出石明神の従神なり。自今以後此の地に住まい汝等子孫及び民衆を守るべし。」と言って姿は消え去った。権守は驚き尊み、直ちに里人を誘って神祠を建て四人の神人をお祀りした。これが、四所明神であり、今も城崎温泉の鎮守の神である。 養老元年地蔵菩薩の化身といわれた道智上人という高僧が広く衆生済度の大願を発して諸国を巡り、城崎の里に来り、四所明神に祈願をこめた。 すると明神のお示しがあり、「ここから未申に当たって三本の杉の樹がある。これこそ生身の釈迦三尊である。汝願をかなえんとならば、此の杉の下に於いて千日の間八曼陀羅の諸仏を拝し、香を焚き、妙経を読み、香の灰を八カ所に埋めよ。」と論された。道智上人は一千日の間ここで修行し、持てる独鈷で穿つと清水が滾々と湧出した。それが独鈷水である。 千日祈願の香の灰と八曼陀羅とを埋めると、大地が震動して天は曼陀羅華を雨ふらし湧泉そこより迸り出で、温泉が出た。「悪世の衆生の罪業深くして悪報の病を受け、悩み苦しむ輩を、この霊湯によって療してやれとの神のお告の尊さよ」と大願を発した。その湯が今の曼陀羅湯である。 上人修行の霊地の屋敷は、曼陀羅屋敷と呼ばれた。その後、曼陀羅屋の屋号を得た。この曼陀羅屋は、明治に入り「古曼陀羅屋」と名前を変え、今現在の「千年の湯古まん」となった。(今現在のまんだらやさんは別の宿で、明治以降の開業) これらが城崎温泉の開湯の歴史である。 つまり、古まんの開祖、日生下権守が城崎温泉の開湯に大きく関わっていることを表している。 和銅元年に日生下権守が四所明神を建てているが、曼陀羅屋敷を古まんの前身であることから、養老元年を創業とした。